2016年12月
-
2度目のアジア放浪の旅に出ていた。したい仕事も見つからず、と言って積極的に仕事を探すわけもなく、ただ毎日毎朝ヨガの練習だけを欠かさずにやっていた。その頃の座右の銘は「無理をしないこと」軟弱な男になっていた。
中国からパキスタンを通ってインドへ。アシュラムに入って本格的にヨガを学ぶ事ができた。とは言っても日本人の人に手ほどきを受けた。何人かの先輩ができたわけだ。瞑想で1時間も座る事ができず背中が痛みだしていた。アサナをしているとその痛みも消えてきた。それでも瞑想はなかなか難しく座っている事が修行であった。
この旅で何人かの聖人とよ ばれる人をみにいった。ある人に『今、ここに生きている」という強いエネルギーを感じた。なんということか!人を引き寄せるパワーを感じた。
沢山の本を読み、ヨガをし、いつしかヨガの頭になっていた。クラッシックの音楽をヨーロッパで聞くとすんなりと馴染んでいくように、ヨガの教えがインドという風土とピタッと合っていて、その哲学や考えが、すーっと身に染みてきて、
そしてヨガの教えは人類にとって真理であると知ったのだ。
ヨガをルーツに様々なものが生まれ派生してきた。
世の中にあふれている心と身体のことのほとんどの中心にあるものがヨガの教えそのものである。
そう確信した。確信したら、これを人に伝えなければと決め旅を切り上げ帰国する事に決めた。
自分がヨガに向いているとか、能力があるかとか、そんな事は考えもしなかった。
この真実を教え広めるのが自分の仕事だとその時決めてしまったのだ。
-
若い頃は元気で可能性に満ちている。経験もなく、何とかなると思っている。賢い人達は大人達が築きあげてきたシステムの一員になる事が生きる道だと悟っている。それに比べ自分は自分探しの旅に出てしまい、これだと思ったヨガに出会った。今思うと決して自分に向いているとは思えない。今出会っていたら、その身体の硬さからやる前から諦めていただろう。
1年のアジア放浪から帰ってきたのは良いが、まったく何も手につかなかった。とりあえずお金を貯めて旅に出る事しか頭に浮かんでこなかった。そんなこんなでやっと軽トラの宅配便の仕事に就く事にした。久しぶりに走る東京はどこもかしこも風景が同じでまったくと言っていいほど道を覚えることができなかった。また、朝から晩まで働くという当たり前の事さえ苦痛でできなかった。そんな中、旅で出会ったヨガをしてみようと思ったのだ。本屋に行き本を買い1日1ポーズずつ覚えていこうと決めた。
最初に出会ったポーズはジャーヌシールシャアナサ、前屈のポーズだった。夜寝る前にベッドの上でポーズをしてみた。本に書いてある通りに呼吸を意識しながらやってみた。硬くなっていた背中が気持ちよく伸び、身体の硬さが感じられた。ポーズが終わった後はリラックスしながら、そのまま寝る予定だった。布団をかぶり寝ようとしても何故か眠れなかった。頭の中がグルグルと動き出し、色々な事が頭の中を駆け巡っていった。朝は5時に起き荷物の積み込みをしなければならない。結局朝まで頭の中はグルグルしたままだった。
このたった1つのポーズが、こんなにまで影響を与えた事に驚き、ヨガの凄さを何故か感じてしまった。それから数年間毎朝ヨガをするようになった。終わった後の爽快感とスッキリ間は朝食を摂るまでしか続かなかったが、ヨガの恩恵をしっかり感じるには十分だった。
-
そこに欲求と抵抗があるとアイデンティティが生まれる。アイデンティティは自分に服を一枚被せるようなもので、本来は着たり脱いだりできるものなのだ。でも同じ事をずっとしていると、その服、役割が身にしみてしまい脱ぐ事をいつしか忘れてしまう。
では、どんな服を着るのか?お母さんという同じ服でも、人それぞれ違う。その人がどこに反応するかで、その柄は変わってくる。やりたくない事をやらされた時、ものすごい抵抗が生まれてきたが何らかの理由でそれをしなければならない時に服を身にまとい始める。気がつかないうちにそれは身に付いてくるのだ。そして本人も気づかないうちに相手に同じ事を(この場合、嫌がる相手に無理に何かを頼むという事)するようになる。
子供から大人まで人はこうして何枚も服を重ね着していく。そしていつしか身につけている事すら忘れてしまい、これが本来の裸の自分だと勘違いしてしまうのだ。
この事で身体と心に緊張を作り出し、人間関係にも支障をきたしたり、無理をして具合が悪くなっていったりもする。
本来の自分、アイデンティティを身につける前の自分に出会う事でこの問題は解決される。上手くこのアイデンティティを使いこなす事が出来れば役者のように色々な体験ができるのかもしれない。
ハタヨガは身体を観察し心を観察して、このアイデンティティを外していく。
筋肉をコントロールして力を入れたり緩めたりすることで身体をコントロールしていく。
そうすることで自分の中心へと近づき、意識も自分の中心へと向かい本来の自分に還っていく。 -
20代にアジアを旅している時、ネパールでヨガに出会った。バブルの頃だ。
精神世界への入口でもあった。クリシュナムリティやバグワン シュリ ラジニーシ(オショウ)などを知ったのもその頃であった。旅の途上であったという事がとても大きな意味を持っていた。これが日本で出会ったとしたら今の自分があったのかどうかわからない。アジアはその頃の日本に比べると貧しく生きるのに必死だった。
ゲストハウスの本棚に置かれた、これらの本を読み漁るようにして時間を過ごした。本当の自分とは?瞑想で得られる境地とは?宗教というまのがぐっと身近に感じられ、今まで興味のなかったお釈迦様や聖者といった存在に興味を持つようになった。どのように生き、どんな行いをしどのように死んでいったのか。そして自分はどのように生きていけばよいのか。暗中模索の中、時間はゆっくりと流れていった。