頭の中に浮んでくる言葉を言葉として捉えるのではなく画像に変換して捉える練習を時々している。
そうするとこのように言葉にする時に言葉 画像 言葉と翻訳する必要がでてくる。
画像で保存されたものは言葉で保存するよりも保存がしやすい。
そして言葉にした時に様々な表現に置き換えることができる。
昨日ヨガアーサナでお尻を緩めて伸ばしている時に浮んできたイメージがあった。
お尻の緊張は過去生での人生の苦しみ?
耐え生き抜いた頑張りが凝縮されている。
生きるのがやっとの時代。
戦時下や圧制による貧困。
奴隷など身分によるもの。
今の日本からは想像もつかないような時代を生き抜いてきた。
お尻をきゅっと緊張させてただひたすらに生きるために頑張ってきた、そんな時代の名残だ。
そんな頑張ってきたものを解放してやれれば、どんなにか樂になれるだろう。
その時代の苦しみを心の奥の方にしまいこんで生きるのと、そうではないのとではどんな違いがあるのだろう。
心の奥にしまいこんである忘れ去られた記憶がその人の一生を左右する。
もし要らないものであれば、持っている必要はないのである。
最近ヨーガやクレニオをしていて思うのだが、身体に触れる事であるいはヨーガをとおして同じ時間を共有することで、一人一人の身体と対話をし心を解放していく事ができれば、どんなによいだろうか?
痛みや病気といった身体からのメッセージを、ちゃんとその心に届ける事が自分の仕事なのではないだろうかと思う。
そう考えるとなかなかやりごたえのある素晴らしい仕事ではないか?
もっともっとだ。