学び

  • 手術後6日目。

    ベッドの上の生活も慣れてきた。特に暇を感じる事もなく本を読んだりテレビを観たりしている。根っからの怠け者には極楽、極楽だが。

    まだ何か作業をする気にはなれない。立ち上がると頭がボーッとする。なので今日はいつもより少し長く歩く事にした。歩行禅だ。運ぶ脚に合わせて『みぎあ〜し、ひだりあ〜し』と交互にラベリングをしていく。身体がポカポカしだしてくるまで歩いてみた。頭が少しだけスッキリしてきた。

    時間があるのでヨガの事も考える。ヨガを初めた頃はヨガの知識がないのでどのようにアサナをしたら良いのか分からないのでストレッチをしていた。それはそれで気持ちが良いのだが、教えると言う事を考え始めた時に解剖学やスポーツなど、その時参考にできるものを片っ端から取り入れてアサナの中に取り入れていった。そしてさらに深く学んでいくとアサナのヒントもヨガの資料の中にヒントがある事をグルジは教えてくれる。何故グルジが皮膚の動きを細かく言うのか、それはヨガの用語の中では食物鞘の事を言っている。そして我々人間を作り出している5つの元素 (火、水、土、風、空)。ここが一番ヨガらしい点だと思うのだがアサナをしている身体の状態をサトビックな状態に持っていくという点だ。これらの事はヨガの本を読むと書いてある。アサナにどう取り入れていくのか?それはグルジが教えてくれる。それができて初めてヨガ体操から本当のヨガになっていく。どんな観点でヨガをしていくのか、それによって同じ事をしていても違った事になっていく。そんな事を考えながら明日へのモチベーションにしている自分がいる。

    ストーマにはなかなか慣れない。朝少し漏れた。ほんの少しだが漏れるのだ。

    食事も重湯から始まって3分、5分、全粥となった。それに伴って便の量も増えてきた。点滴も昨日で終わった。後はお尻の管が取れればだいぶ動けるようになるのだが、お尻とお腹はまだ痛い。痛み止めを飲むほどではないが時々痛くなる。

    歩いてみると術前の身体の癖があってその動きで動いているようで違和感を感じる。身体の一部分がなくなったのだから動きも変わっていくはずだ。早くこの身体に慣れていかなければならない。

    こちらの看護士さんも身体を動かしやすいストーマの装具を選んでくれた。

    飛び出た腸も少しだが小さくなってきた。今はこの状況にいかに慣れていくかだ。そして次はいつお尻の尻尾が取れるかだ。

  • お見舞いでいただいたお花は目を楽しませてくれる。

    自分の周りではポン(ガンの事)とか介護とかいう言葉はまだ先かと思っていた。自分が1番に先になっちゃった。結構何でも人より早く体験する人生のような気がしていた。ポンも最初になったのかな。なんて思う。

    あるセラピストは魂の歪んだ形だっていうけど2人に1人がポンになる時代に、魂の歪みとはどういう意味なんだろう?この国の魂が歪んでいるとしたら何か起こるのだろうか?

    医学では免疫異常がポンを作りだしているということを言っている。食事が問題だという人もいる。添加物の多いものは極力避けたほうがいいのかもしれない。ヨガでもできる事はある。自分の体験から足りなかったものを取り入れていこうと思う。退院後は免疫機能をあげるようなリストラティブヨガとプラナヤーマのレッスンを共にしていこうと思う。

    入院前にポンの痛みを感じていたら何かのエネルギーの流れを感じて痛みが消えた。2回目は感じる事ができなかったが何かしらの目に見えないものの原因はあるのかもしれない。また別のヒーラーはポンはエネルギー的には悪いものではないと言っていた。マハリシもポンだったって言う。

    ポンもお釈迦様がいう生老病死の苦しみの1つであってただの運命なのかなって思う。ヨガしてても病気にはなるし何もしてなくても元気な人は大勢いる。

    どんな事が起こっても悲嘆して生きる力をなくす事なく、『自分の人生を受け入れる力』と『他人を慈しむ慈悲の心』を育てる事が自分のヨガの目的だ。

    自分の人生を受け入れる力とは、簡単に言うと平常心や不動心という事だ。

  • やっと入院の日がやってきた。他の行事と同じようについにこの日が来た。

    入院病棟は思ったより静かで外来でごった返している院内が嘘のようだ。
    看護士の人は親切だし、みんな親切。

    そして手術の説明を受けた。お尻ががっぽり無くなってしまうのだ。なんかショックだ。自分のヨガ人生はどうなってしまうのだろうか?ここまできたら何を考えてもしょうがないのだがヨガのお仕事ができなくなった人生も考えてしまう。

    今日ヨガ関係の友人がお見舞いにきてくれた。ヨガスタジオを経営しているその友人と話しているといかに自分がビジネスというものからかけ離れて仕事をしてきたのかと思った。
    この仕事はいかに集客力を上げるのかというのが肝である。集客力を上げるためにどうするのか?
    まぁ、そんな事を、考えないでもないのだが、ヨガというものに真摯に向き合う事の方が大切に考えてきた。その辺りにギャップを感じるのだ。
    今の社会のシステムはそうできているのだ。資本民主主義である。
    自分の生き方とは違う。という印象だ。
    ヨガを続けていけるのか?と思っている自分が言うのも何だが、やっぱりビジネスとヨガを学ぶと言うことは違うのだと自分は思う。
    これから先もやっぱり今までと同じやり方を続けていくのだろう。
    たとえアサナができなくなっても、プラナヤーマやメディテーションは続けていくだろう。
    でも、グルジはどんな人にでも等しくヨガの恩恵が受けれるようにアイアンガーヨガのシステムを作ってくれている。もっと深くアイアンガーヨガを学ぶきっかけになるのかもしれない。

  • 世界が意識で創り出されているのなら

    人に何かを頼んだ結果、その人が最終的にできないと言ってくるケースがよくある。

    期待して待っていても何らかの理由でドタキャンをされる。

    相手に対して腹が立つが、そういう結果を導いているのは自分である。

    相手を責めるべきではない。

    相手は相手で頼まれるという事を創造しているのにそれを断るというのは何らかの人生における課題があるのだろうと考える。

    では自分はどうしてこのような結果を創り出しているのだろうか?

    この事に関して心理的なワークをするか?

    瞑想をするか?

    変えたいと思うのなら何らかのアプローチが必要になってくるかもしれない。

    ただ意識しているだけでもいいのかもしれない。

    さてどうするか?である。

    誰か知っている人がいたら教えてほしい。

  • 安らぎ

    最近ヒーリングに興味が湧いてきた。

    以前から多少興味があり学んでみたりもしていたのだが、ネガティブな思考がなかなか邪魔をして先には進めないでいた。

    今年に入ってヒーラーに会ったりしてまた興味が少しずつ湧いてきた。

    そして今読みだしたのがどうもヴィパッサナー瞑想を元にしているもののようなので興味をもって読んでいる。その中で、目標を達成したり努力によって何かを手に入れたりして、良い気分を味わっていても、それは内部の奥深いところでは何かを手に入れるための努力をしなくてもよくなったからなのだという。完全な無為という小さな空間が生じて、その空間が歓び、安らぎ、満足感で満たされる。目標を達成すると静寂の空間を楽しむ事すらできなくなり次の獲得するものを心は探し求める。

    そして次から次へと思考は働きだし幸福を求めて止まない。この安らぎの空間の中に留まる術が我々には必要なのではないだろうか。

  • 人間万事塞翁が馬

    腰椎が変形してしまっている事を2年前に整形の先生から言われた。その時は「ふーん、そうなんだ」ぐらいにしか思っていなかったが、この前整体の先生に触診しただけで、同じことを言われショックを受けた。

    更にその先生はもう治らないからほどほどに無理をせずに付き合っていく事を勧められた。

    今まで無理をしてきたつもりはなかったが、無理をしていたから身体が壊れてしまったのだ。

    無理をするというのは身体を酷使するだけではなく感情面でも無理をしていたのだ。

    頑張っていたのだ。

    何をそんなに頑張っていたのか?

    できもしない事をあれこれ悩み苦しみ勝手に腎臓に負担をかけ内臓を硬くし腰にまで負担をかけていた。

    今に始まった事ではない。若い時からの癖だ。思考の癖。身体の癖。

    何もこの事は自分だけの問題ではない。多くの人が同じような原因で苦しんでいると先生は言う。

    今は他の人にアドバイスをできるような状態ではないが、もっと身体、心(感情や思考)をしっかり感じ、気づいたら常に直していき、ヨガをもっと多くの人に役立てていけるものにしていきたい。

  • アライメント

    アサナをしているとアライメントの事をよく言う。身体全体を意識して身体を正しい位置に持っていく。それができれば苦労はしない。曲がるべきところが深く曲がっていなくてもアライメントは正しくとる必要がある。例えば腕を挙げる動作1つとってみても、アライメントなんてそっちのけで手を高くげようとする。完成ポーズというか、ゴールに向かって一直線なのだ。アライメントを正しく取ろうとすると、思ったように手は挙がらなくなる。ゴールは遠いし、できないし嫌になってしまうかもしれない。若い時はアライメントを多少無視しても身体にさほど影響はないのかもしれないが(そんなことはないと思うが)ある程度歳を重ねると、若い時のやり方では通用しなくなってくる。身体がSOSを出し始めるのだ。アサナに入る前にアライメントをしっかりとって動きながらしっかり自分を観察し観る目を養いながら丁寧に動いていく必要がある。腕を真上に挙げる動作でもアライメントが崩れるようではそこまで腕を挙げる必要はなく、水平よりやや上でも構わない。腕を挙げてしまってからアライメントを取るというやり方もあると思うが、難易度は上がる。こうしてアライメントを正しくとるという事で誰にでもできるヨガになってくる。

  • 感情のエネルギー

    人は感情によって行動する。そう整体の先生はおっしゃった。

    だから嫌々やると負のエネルギーが働き出すから心にも身体にも良くない。どうせやるのなら負のエネルギーを正のエネルギーに変えて楽しみながらやる方が心にも身体にも結果も良いものになってくる。

    やる気を出してやると色々な事が変化してくる事を体験した事はないだろうか?

    そういう切り替える事が出来たら人生はもっと変わっていく事だろう。

    そこにはこだわりや執着があってはありのままを受け入れる事にはならない。

    変化を恐れてはいけない。

    感情のエネルギーが気のエネルギーに影響を与え肉体に影響を与えていく。

    だから自分の感情を俯瞰するように観察する必要がある。身体を観察し、呼吸を観察し感情を観察する。

    そこからさらに思考の域に入っていく。

    先ずは感じること。そして観察する事。そして受け入れる事。

    それがヨガだ。

  • アサナ

    ヨガをしはじめて30年近い月日が流れた。

    これでもか、これでもかと練習をやりすぎて、医者に言われるまで身体を酷使しすぎてしまっていた。

    瞑想という心の面から、この道に入ったのにいつのまにかアサナがうまくできる事にとらわれすぎていた。

    それなりに学んで勉強になったが、身体を傷めてしまっていた。

    過ぎたるは及ばざるが如しだ。

    ほどほどが今からの人生には必要で転換期にでもきているのだろう。

    じゃあ、この先どのようにアサナと向き合っていけば良いのだろうか?

    万人がメディアに出てくる人のようにアサナを綺麗(必ずしも良いとは思はないが)にできないのであれば、どこがゴールになるのだろうか?

    アサナが上手くなっていくという事は一体どういうことななのか?

    グルジは90歳を過ぎてもアサナを続けていた。

    肉体からプラーナへそして感情のエネルギー層へと意識を旅させる為には1人での練習が重要になってくる。

    何故なら自分をしっかり見つめて観察する必要があるからだ。

    そして身体の隅々まで意識を張り巡らし肉体には知性を内にはプラーナを感じつつ心の変化を観察させる。

    とらわれる事なく執着する事なく流れていく心の変化を見つめる。

    川の流れを見つめるように。

    今できるアサナはこういう事になってくる。

  • 神経伝達治療(NTA)を受ける

    身体の不調がここのところ続いていて、知り合いの紹介で神経伝達治療を受けに長崎県の諫早まで受けに行ってきた。遠くからも患者が来るような治療院で大分ナンバーの車が停まっていた。

    身体のバランスを治し、心の話をしながら施術をしてもらった。

    結局、色々考えすぎていてそれが腎臓を悪くしているといわれた。

    なんでもほどほどにという事だった。

    ほっといて

    どうでもいい事

    ほっといて

    どうにかなるさ

    という事らしい。

    感情のエネルギーで身体は動くからマイナスの感情で身体を動かしていると身体に負担がくる。

    マイナスのエネルギーで動いている事が多々あったのかと思い出してみた。

    そうすると思い当たる節がある。

    なんとかしようとしても何ともならない事が、心と身体を蝕んでいく。

    そういう人は自分だけではなく本当に多くの人がそうやって自分を苦しめているそうだ。

    それでも頑張れとこの社会は言っているのかもしれない。

    頑張ればなんとかなると。

    もっと努力をしろと。

    これからの人生、中道を目指していくのも新しい道なのかもしれない。